村上世彰氏の凋落を見て企業価値と株主の利益について考えた

村上ファンドの代表村上世彰氏がインサイダー取引強制捜査を受ける見込みだそうです。まだ逮捕という確定情報は出ていないけれど,特捜がここまで動いて何もないということもないだろうから間違いないのでしょう。
このエントリの目的は逮捕罪名の予想ではなく,このニュースに触れてどこかしら安堵のような感覚を憶えている自分に気がつき,それがなぜか考えておこうと思ったことにあります。結論から言うと,村上氏が「株主価値」を声高に叫んで自分を正当化してきたことに,ついていけなかったというか嫌悪感を感じていたからじゃないかと今は思っています。
私は,会社というものは社会に利益を及ぼすものだからその存在を許される,簡単に言えば「社会の公器」だと捉えています。だから,企業の価値は株主価値のみならず,従業員,取引先,地域社会をはじめとするステークホルダーに及ぼす利益の総和と考えるべきだと思います。もちろん,株主価値が大事なのは言うまでもないですが,それを錦の御旗のように掲げて自分を正当化する姿が,他のステークホルダーの利益を踏みにじる独善的な姿に見えたのです。
法律的に言うと,会社法を見ても会社は株主が所有するものであることは間違いありません。そこで,会社の価値つまり企業価値は株主価値とイコールであると考えるのも無理からぬ解釈です。一連の裁判例を見ると,裁判所も企業価値は株主価値を指し,その他ステークホルダーの利益は株主の価値に反映する限りにおいて間接的に保証されるにすぎないと解しているようです。ただ,この解釈はそもそも会社法がなぜあるのかという部分を見落としているような気がします。社会に有用だから会社という形態が認めてられているのに,その「社会」を「株主」に矮小化すべきでないだろうと思うのです。
また,株価以外に企業価値を計る適当な尺度がないという言い方も聞かれますが,企業価値を計るのが難しくて他に適当な尺度がないから株価を企業価値としようというのと,株主価値が企業価値だというのとは全然違う話でしょう。
実は,これがアメリカであれば,会社の価値=株主価値ということで納得がいく部分もあります。なぜなら,従業員であれ誰であれ多くのアメリカ人は給料から投資信託を買ったり,年金基金を通じて老後の資金が株式市場で運営されてたりすることで,株価の上昇が自分の直接利益だと思える社会構造が取られているからです。さらに最近では健康保険の保険金も株式市場で運営するよう法改正がなされました。その結果,アメリカ人は株価が上がるということは,自分の給料,年金,保険金が増えることだと理解しているわけです。実際アメリカ人の友人らと話すと,自分のお金がどういう風に運用されているのかという観点から,株式市場に対して深い理解と一体感,簡単に言えば「わがこと」のような感覚を持っていることに気がつきます。このような社会環境では,株主利益はみんなの利益と言い換えることが可能でしょうし,会社の価値=株主価値と考えることにそれほど違和感を感じないはずです。
翻ってわが国では,変わりつつあるとはいえ投資信託はあくまで投資,余剰資金で儲けるものだという認識でしょう。また,これも変わりつつあるとはいえ株主の多くは企業,ファンドに出資しているのも国内外の企業(村上ファンドもしかり),年金は多くが公的年金,保険は公的保険ということで,株価が上がることが個々人の直接的な利益として実感できる社会とは言えません。全部株式市場に結びつけて自己責任で運用させるアメリカがいいとは決して思いませんが,このような社会構造の違いを差し置いて,わが国で株主価値こそ企業価値と平然と言ってのけるのは私には躊躇われます。
村上氏に何か違和感を感じながら法的に文句が言えなかったのは,商法,会社法に多様なステークホルダーを重視するという価値観を踏まえた規定が置かれなかったことが原因なのかもしれません。株主価値の権化のように言われるアメリカにだって,株主以外のステークホルダーの利益を考慮することができるとする信認義務修正法のような法律が多くの州で制定されています。それならわが国の裁判所だって,「『社会の公器』たる会社は所有者たる株主の利益を第一に考えることはもとより,多様なステークホルダーの利益を考慮して意思決定をするのは当然である」くらい言ってくれてもいいのになどと思ったりもします。
ライブドア事件に続く村上ファンド事件を受けて,行き過ぎた株主主義にブレーキがかかってくれればいいと個人的には思います。
(ご参考までに,過去の企業価値に関するエントリはこちらです。